境内のご案内 寳泉寺の歩み お知らせ 供養・墓苑 特別連載



■寳泉寺と地域のあゆみ・・・・・・・・

当寺は玉雄山寳泉寺と称し福井県の永平寺、横浜鶴見の総持寺を両大本山にあおぐ曹洞宗のお寺で創建は永正十六年(1519)に小田原北条氏の家臣 仙波土佐の守によって相模国高座郡小出村字遠藤(現遠藤)に開創されました。
開創当時の寳泉寺は敷地境内も広大で十七棟の建物からなる大寺院でした。慶長年間の頃、寳泉寺七代住職悦堂大和尚が遠藤東原の湿地帯の原野に人工の排水溝を掘り荒野開拓し遠藤原村を開いた話がある。これはその後も悦堂堀りと呼ばれてきたが、現在は秋葉台中学校の運動場になり、その先も住宅地となって今はみられなくなってしまいました。この地域は引地川支流の小糸川と小出川の二河川の水源池で、池のかしら(現在の秋葉台小学校の運動場)といわれる湿地であったが、悦堂堀の開設の偉業により、このあと三百年にわたって、遠藤地区の穀倉地帯として、住民の生活をうるおして来たのである。しかし大正十二年の関東大震災よりすべての建物は倒壊してしまい当時の面影は見る事は出来ません。
その後、寳泉寺二十八世住職龍紋大和尚が檀信徒の協力を得て昭和元年現在の本堂を向山に創建し現在に至る。今のお寺は間口十間余百十有余坪の大伽藍をはじめ観音堂、金比羅堂,閻魔堂、宝泉大仏、水子地蔵、客殿、庫院から構成されており、現在第三十一世住職によって護持され広く信仰を集めております。 
寳泉寺には、寺宝も多く開山二世伝衣の九條衣の袈裟,寛永三年製の雲版,宋心越筆による山号額、尊応筆による無上尊の額、開山伝来の長槍二握、釈迦涅槃図,富岡鐵齋筆の寿老人墨画等の文化財が展示されており見学希望者多くこられております。


■寳泉寺の建物について・・・・・・・・

法堂(本堂)は正面に本尊釈迦如来が鎮座し左右に達磨大師と大権修理菩薩が檀家の皆様をお守りしております。又須弥壇の裏側には開山堂(位牌堂)があり、正面に永平寺開祖道元禅師、総持寺開山榮山禅師左右に寳泉寺歴代住職の位牌が安置されております。法堂は震災により倒壊後大正十三年より立て直しをはじめ昭和元年完成に至り当時では、近隣寺院にはない大きな法堂として完成し現在に至ります。法堂は百二十坪、屋根の最上からは、相模湾が見る事が出来ます。

客殿(きゃくでん)は葬儀、法事等の控室に使用する建物です。大きさは百三十坪四十畳の部屋が二間十畳の部屋が二間八畳の部屋が一間、洋間、厨房といった形で構成されており平成六年に完成した建物です。

庫院(くいん)は住職と寺族が事務及び日常生活を送る建物です。昭和七年に完成し当時は客殿として使用していたが平成六年に現在の客殿が完成したことにより庫院として使用する様になりました。また庫院には方丈の間という一丈四方の居間が有りその居間に居る人を方丈様といいます禅宗においては特有の呼び方である方丈とは住職を示します。

閻魔堂(えんまどう)は昭和四十七年に完成し堂内には、閻魔王(梵名)耶摩羅者が鎮座されており地獄の主として造悪の不善業を監視し悪の恐るべきことを知らしむ冥王といいます。但し経説に依りては餓鬼道(界)の主又地蔵菩薩の化身なりとも云う正面に閻魔大王その前に赤鬼、青鬼右側に葬頭河婆前に五道冥官がいます。五道冥官は筆と紙を持っております。五道とは、冥界に行く為に通る五つの道で、善悪をただすそれぞれの道の番人です。

金比羅堂(こんぴらどう)は境内にお堂を構えておりましたが雨風など自然のなせる脅威に依り老朽化し当時はその姿を消しておりましたが昭和五十一年に新たに創建いたしました。金比羅大権現は本尊の信仰と共に開祖から当山の鎮守とされており、ご神体は檀信徒の方々の守り本尊としても信仰されております。また、一般では、金比羅大権現は航海を守る神として昔から信仰されておりますが航海のみならず人生の安全を守る神でもあるといわれております。

観音堂(かんのんどう)は寛延二年に旧境内にお堂を構えておりましたが大正十二年の震災に依り倒壊してしまい観音様は近年まで法堂に仮安置されておりましたが平成六年に新たに観音堂が創建されたことに依り七十年ぶりに観音堂へ戻られました。当寺は西国三十三観音を祀っております。昔の人々は、西国の三十三ものお寺を巡り願掛けしておられましたが寳泉寺十九代住職泰山大和尚が願主となりお年寄りの長旅は大変であろうと三十三体の観音様を観音堂へ祀り読経し御霊を入れられました。願主は観音堂へ入堂し一体一体の前で願を掛ける事に依り同じ御利益が受けられる様になりました。そして現在も深く信仰されております。

水子地蔵(みずこじぞう)は正式には,慈母観世音菩薩といい亡くなられた童を救い早く成仏出来るよう見守ってくれる菩薩様です。亡くなった童も母を慕う様に菩薩にすがる姿が水子地蔵にあらわさられております。遠藤村でも大正から昭和初期にかけて疫病がはやり、沢山の童が亡くなられた時代があり、また戦中戦後なかなか童が育たない時代もありました。お寺で供養しておりましたが檀信徒の皆様より水子地蔵があればとの強い希望があり檀信徒の皆様の協力を得て昭和五十九年に創建されました。現在でも理由あってこの世に生を受ける事の出来なかった童の為に毎年十一月二十四日に水子追善供養をおこなっております。

宝泉大仏(ほうせんだいぶつ)は正式には釈迦牟尼大仏つまりお釈迦様のことです。この大仏は青銅製で中国にて造られ船で日本に来られ平成八年に寳泉寺境内に鎮座されました。日本の大仏の作りとは手の向きが違い日本の大仏は右手に梵字の幸福をあらわし左手で人々を救うと云う意味で手の平を上に向けていますが宝泉大仏は右手に梵字の幸福までは同じですが左手は邪悪なものはおさえると云う意味で手の甲を上へ向けております。これは中国と日本の考え方の違いに依るものとおもいます。大仏を正面から見ると顔を少し右に向けており向側墓地の歴代住職墓地及檀信徒墓地を見守って頂いております。


■寳泉寺寺宝について・・・・・・

九條衣の袈裟(くじょうえのけさ)は寳泉寺八代住職揚岩大和尚は将軍三代家光の従兄弟に当たる方で母の京極長門守殿常光院様が寳泉寺に金襴袈裟を寄付して頂きました。現在も法堂の西側ガラスケ−スの中に大切に保管展示されております。

雲版(うんぱん)は青銅製で径が62センチであり寛永三年(1626)に造られた鳴物です。禅寺で飯食時を知らせる法器で雲形に鋳出しているところからその名がついた。これを打ち鳴らして衆僧を集合させました。また、雲版は昭和五十三年に藤沢市指定文化財になっております。

涅槃図(ねはんず)は双樹林下で頭北面西に横臥し入涅槃された釈迦の姿でそのまわりを取り囲んだ弟子たちが慟哭するさまを描いた図です。
寳泉寺の涅槃図は横2.5メ−トル縦4メ−トル、近隣の寺院にはない大きな掛け軸となっております。年に一回二月一日より十五日まで法堂に掛けます。

寿老人画(じゅろうじんが)は七福神の一人で長寿を授けるという神です。この墨画は富岡鐵齋の作であり元は第三十二代横綱玉錦三右衛門関旧蔵であったが清光寺所有になり後に相撲の花籠部屋にうつり山梨の美術館で保管されていたが、平成八年に縁有って寳泉寺の所有となり客殿の床の間に展示しております。





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