退屈(たいくつ)
「あ〜、やることがなくて、退屈だ」
「待ち合わせで待たされて、退屈していた」
「退屈」という言葉は、やることが無くて、暇をもてあましていることを言います。
この「退屈」という言葉ですが、もとは仏教の言葉として使われていました。
僧侶が修行をしている時に、その苦しさやたいへんさに「屈して」、修行を続ける心が「退き」、努力をやめてしまうことを「退屈」と言っていたのです。「屈して、退く」、それが退屈でした。
仏教の修行においては、三つの退屈に陥りやすいとされています。
①悟りを得るのはとてもたいへんだということを前にして「退屈」すること。
②布施の修行はとてもたいへんだと気づいて「退屈」すること。
③そして、悟りを得たことを証明することが難しいと知って「退屈」すること。
仏道修行の道はとても険しく、常に屈して退いてしまう可能性にさらされているというのです。
これは仏道修行だけではありません。
我々の人生も同様です。人生は常にたいへんなことに直面していて、「退屈」(屈して退く)にさらされています。徳川家康が「人生とは重き荷を背負いて、遠き道を行くがごとし」と言ったように、次から次へと、私たちを悩ませるような問題がわいて出てきます。
そして我々は、そのすべてを解決できるわけではありません。何とかしなければと思いつつ、中途半端のままにしてしまうこともしばしばです。我々の人生は常に、大量の「退屈」に押しつぶされそうになっています。
時には、「退屈」しつつも、その問題を忘れてしまうこともあるでしょう。新しい問題に直面すると、過去の問題は忘れてしまいがちです。忘れたまま無くなってしまう問題もあれば、忘れた頃に再び思い出す問題もあります。
不思議なもので、問題に直面している時は、解決できそうもない事態に「退屈」しそうになりますが、時間をおくと、その問題がたいしたことの無いものに見えてくることも少なくありません。また時間をおくと、それまで困難に見えたことが、不思議なことに簡単に解決してしまうこともあります。
問題の先送り、ということは、場合によっては、人が生きていく上での智惠でもあるのです。
困難な問題にぶつかったら、「退屈」(屈して退く)ことも悪くないと思います。それも人生なのではないでしょうか。