我慢

「我慢」と聞くと、多くの人は「辛いことを耐える」「じっと堪える」といった意味を思い浮かべるでしょう。日本語の日常語としての「我慢」は、努力や忍耐を称賛するポジティブなニュアンスを帯びて使われることが多くあります。たとえば、「よく我慢したね」という言葉には、ねぎらいや励ましの気持ちが込められています。
しかし、この「我慢」という言葉、本来は仏教の専門用語であり、むしろ煩悩の一種として戒めの対象とされていたのです。
仏教における「我慢(がまん)」とは、「我(が)」=自我(エゴ)に対する「慢(まん)」=おごりや高慢の心を意味します。つまり、自分を他よりも優れていると考えたり、自分中心に物事を捉えたりする心の働きが「我慢」です。サンスクリット語では「アハンカーラ」や「マーナ」と訳され、自我への執着、あるいは自己に対する誤った認識の象徴とされます。
仏教には七つの「慢」があり、「我慢」の他、「慢(まん)」「過慢(かまん)」「慢過慢(まんかまん)」「増上慢(そうじょうまん)」「卑下慢(ひげまん)」「邪慢(じゃまん)」があります。
興味深いのは、この「我慢」という仏教語が、いつの間にか「忍耐」や「耐えること」といった意味へと転じていったことです。これは日本文化における「忍耐」「忍ぶ」などの美徳と重なり合った結果とも言えるでしょう。苦しみに耐える姿に価値を見出すという美意識が、「我慢」という言葉を本来の意味から遠ざけつつも、より日常的で共感を呼ぶ言葉へと変化させたのです。
とはいえ、時に私たちは「我慢」の名のもとに、自分の感情や欲求を過剰に押し殺してしまうことがあります。そして、その抑圧された想いが、別のかたちで爆発したり、心身の不調となって現れたりすることも少なくありません。
そう考えると、仏教本来の「我慢」──つまり、エゴにとらわれることへの警鐘──を思い出すことは、現代においても大きな意味を持つのではないでしょうか。「耐える」ことが美徳であると同時に、そこに「執着」や「自意識へのこだわり」が潜んでいないかを問い直すこと。それは、より健やかな我との向き合い方へとつながっていくはずです。
表面の「我慢」ではなく、心の奥にある「我慢」と向き合うこと。現代人にとっての大切なこととは、案外そのように自分を見つめることなのかもしれません。