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不思議

知性では捉えきれない不思議

「不思議」という言葉は、日常の中でごく当たり前に使われています。「不思議だね」と言うのは、「信じられないね」「考えられないね」「驚くべきだね」「驚異的だね」「奇跡的だね」といったニュアンスの意味です。

 「不思議」は、もともと仏教語の「不可思議」という言葉がもとになっていて、「思いはかることもできず、言語でも表現できないこと」(広辞苑)を意味します。

 「不可思議」を、漢文の読み下し文にすると「思議できない」ということになります。「思いはかることができない」「言葉で説明することもできない」ということです。仏教における悟りの境地がそれにあたります。つまり人間の知性では捉えきれないことを指していました。

 「不可思議」という言葉は、仏教とともに日本に伝わります。そして「不思議」という三文字に変化し、私たちの日常語になっていきました。

 我々の使う「不思議」は、知性で捉えきれない、というニュアンスが残っているものの、生活の中で驚くべきことを指しています。悟りの境地というレベルとは異なる「ささやかな不思議」です。

とてつもなく大きな数として

江戸時代に出版された数学書『塵劫記(じんこうき)』には、数の桁が記されています。一の位から、一、十、百、千、万、億、兆……と続きます。さらに、京(けい)、垓(がい)、𥝱(じょ)、穣(じょう)、溝(こう)、澗(かん)、正(せい)、載(さい)、極(ごく)、恒河沙(ごうがしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)と続き、その次に来るのが「不可思議」です。

その数はなんと10の64乗。さらにその上が最大の単位「無量大数(10の68乗)」となります。

 これは天文学的な数字どころの話ではありません。現代の物理学が観測可能な宇宙に存在する原子の総数が10の80乗個程度と言われていますから、「不可思議」がいかに途方もないスケールであるかがわかります。人間の想像力を完全に超えたこの数は、まさに「心で思い量ることもできない」という仏教の宇宙観そのものを体現しているのです。

仏さまのとてつもなく長い寿命

 ちなみに「恒河沙」「阿僧祇」「那由他」も仏教語です。

 「恒河沙」は法華経に出てくる言葉で、「恒河」はインドのガンジス川、「沙」は砂のことです。ガンジス川の砂の数ようにたくさんという意味です。法華経で、「恒河の砂ほど多くの衆生が仏の教えを聴く」といったような形で使われています。

 「阿僧祇」は、人が成仏するまでに必要な時間の長さである「三阿僧祇劫」(さんあそうぎごう)という言葉があり、やはりとても長い時間という意味です。やはり法華経には、「無量千万億の阿僧祇の世界」とあり、とにかく長い時間の意味で使われています。

 「那由多」も同様です。焼酎で「那由多の刻」というブランドがあり、この言葉は、何となく聞いたことのある人が多いでしょう。「那由多」は、サンスクリット語で大きな数を意味する「ナユタ」を音訳したものです。法華経には「大通智勝仏の寿命は五百四十万億那由他劫」と、大通智勝仏という釈迦を悟りに導いたとされる仏さまの寿命がとてつもなく長いという意味で使われています。

不思議な縁

 仏教における大切な考え方に「縁起」ということがあります。

 「縁起」は「縁」とも言い、あらゆる物事には常に原因があり、すべての物事は関係し合って存在しているというという考え方です。

 これも我々の日常語になり、「縁」は、人と人の結びつきを意味するようになります。

 「縁」は「あの人とは不思議と縁があるね」というように「不思議」という言葉といっしょに使われることが少なくありません。偶然かもしれないがあらゆる局面で関係があることを意味します。「縁」は、「驚くべき」ものであると同時に、「人間の知性では捉えきれない何か」です。その背後には、仏さまの力があるのかもしれません。

 この世界には、理屈では捉えることのできない何かがあります。わからないことがあるのは、決して悪いことじゃありません。この世界が、不思議に満ちているからこそ、日々驚き、日々楽しみつつ、活き活きと生きていけるのだと思います。

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