山門
神聖な空間への入り口
神聖な空間への入り口
今日は、泉ちゃん、お父さんお母さんと、お彼岸のお墓参りです。
方丈さんと話をして以来、泉ちゃんは、お寺に行くのが楽しみです。
お寺までは歩いて20分くらいかかりますが、今日は天気がいいので、ちょっとした散歩気分です。
「ついたよ、お母さん」
「うん、じゃあ、山門を通る時に、おじぎをしなさいね」
「さんもんって??」
「あそこに見えるでしょう。お寺の門は、山門と呼ぶのよ」
「さんもん?」
「山の門って書くのよ。仏教を日本に伝えた中国では、お寺はほとんどが、人里離れた山の上にあったの。山の中で、お坊さん達が、ひっそりと修行をしていたのね。泉ちゃんは、比叡山とか高野山って聞いたことがある?」
「うん」
「比叡山も高野山も、山そのものがお寺なのよ。昔は、お寺は山の中にあることが多かったの。それで、お寺のことを『山』と呼ぶこともあるのね。寳泉寺もね、『玉雄山(ぎょくゆうざん)寳泉禅寺(ほうせんぜんじ)』というのが正式のお名前なのよ」
「ぎょくゆうざん?」
「そう、だから『山門』」
「ふ~ん」
「それと山門はね、結界(けっかい)と言ってね。お寺の境内の神聖な空間と、私たちが生活している世俗の空間を区別する門でもあるの。お寺は神聖な場所でしょ。だから、そうじゃない場所で暮らしている私たちは、山門をくぐる時、『これから、お寺に入らせさせていただきます』と、頭をさげるのよ。ほら、ちゃんとおじぎをしなさい」
「は~い」
泉ちゃんは、小走りで山門に近づき、ペコリと頭をさげました。
「いつもここは静かだな。山門をくぐって階段を上ると、いつも、気が引き締まるんだよな」
「お父さんも、ちゃんと頭をさげるんだよ」
「わかった、わかった。泉ちゃんには、かなわないな。もっとちゃんと見てごらん、この山門」
「うん」
「これはね、平成17年に再建された山門なんだ」
「うん、すごく立派」
「そうだろう」
「ねえねえ、お父さん。この人、何か恐いよ」
「この人? ああ仁王さまのことか。この像は、仁王さまと言うんだよ。本当のお名前は、金剛力士(こんごうりきし)。もともとは、お二人でひと組だから、二つの王ということで、二王と言っていたんだってさ」
「お二人だから、におう、そうなんだ」
「見てごらん。ちょっとずつ、違うだろう」
「ほんとだあ、こっちの仁王さまは口をあいているけど、こっちの仁王さまは口をあいていないんだね」
仁王さま
「口をあいているほうは『阿形(あぎょう)像』、口を閉じているほうは『吽形(うんぎょう)像』って言うんだよ。よく見てごらん。こっちは『あ』って言っているみたいだろ、それでこっちは『うん』って言っているように見えないかい?」
「へ~、ほんとだあ」
「『阿形像』は怒りの気持ちをあらわにして、『吽形像』は怒りの気持ちを内に秘めて、お寺の中に悪いやつが入らないように、番をしているんだ」
「お寺のガードマンなんだ」
「そうだな、お寺のガードマン。それからね、『あ』はね、『あいうえお』で最初の言葉だろう。だから宇宙の始まりを表しているんだよ。それで『うん』は最後だから、宇宙の終わり。だから、『あ』と『うん』の二つが組になることで、宇宙の始まりと終わりを表すんだぞ」
「すごいね。宇宙をあらわすんだあ」
「それから、『あ』は真実を表し、『うん』は智慧を表すという説もあるんだ。このお二人の仁王さまが、そうした宇宙の始まりと終わりを表し、真実と智慧を表しているんだ。なんかすごいだろう、仁王さまって」
「うん、びっくりした」
「泉ちゃんは、『阿吽(あうん)の呼吸』って言葉を知ってるかい?」
「うん、聞いたことある」
「二人の人が、何かいっしょに仕事とかをする時に、お互いの気持ちとかが言葉にしなくても通じ合うということを、『阿吽の呼吸』と言うんだよ。このお二人の仁王さまが、呼吸まであわせるように、共に行動していることから、『阿吽の呼吸』って言われるようになったんだ」
「そうなの」
「例えばだな、『お父さんとお母さんはいつも阿吽の呼吸』、こんな感じだ」
「やだわ、お父さん。そんなことも無いでしょ。私のことは、あまりわかってくれようとしないじゃない?」
「おいおい、そんなこと言うなよ。こっちは、いつだって『阿吽の呼吸』だと思っているんだから」
「まあ、大目に見ておくわよ」
「ねえ、喧嘩しないでさ。早く行こうよ」
「そうだね、ゴメンゴメン。行きましょ、お父さん」
「うん。さあ、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんのお墓参りだ」
泉ちゃんとお父さん、お母さんは、山門でもう一度おじぎをして、本堂に向かう階段を登っていきました。