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寳泉寺の歩み

寳泉寺縁起(ほうせんじえんぎ)

寳泉寺は、福井県の永平寺と横浜鶴見の總持寺を両大本山にあおぐ曹洞宗の禅寺で、永正16年、小田原北条氏の家臣 仙波土佐守によって相模国高座郡小出村字遠藤(現藤沢市遠藤)に開創されました。
開創当時の寳泉寺は敷地境内も広大で、17棟の建物からなる大寺院でしたが、大正12年の関東大震災ですべての建物が倒壊してしまいました。しかし、第二十八世住職龍紋大和尚は檀信徒の御力添えを得て昭和元年、本堂を向山に再建し現在に至っています。
お寺の規模は、間口十間余百十有余坪の大伽藍をほこる法堂をはじめ観音堂、金比羅堂、閻魔堂、寳泉大仏、水子地蔵、客殿、庫院から構成されており、現在、第三十一世住職によって護持され信仰を集めております。寳泉寺には貴重な宝物も多く開山二世伝衣の九條衣の袈裟、寛永3年製の雲版、宋心越筆による山号額、尊応筆による無上尊の額、開山伝来の長槍二握、釈迦涅槃図、富岡鐵齋筆の寿老人墨画等の文化財が所蔵されています(文化財の拝観については予約が必要です)。

寳泉寺と地域のあゆみ

当寺は玉雄山寳泉寺と称し福井県の永平寺、横浜鶴見の総持寺を両大本山にあおぐ曹洞宗のお寺で創建は永正十六年(1519)に小田原北条氏の家臣 仙波土佐の守によって相模国高座郡小出村字遠藤(現遠藤)に開創されました。
開創当時の寳泉寺は敷地境内も広大で十七棟の建物からなる大寺院でした。慶長年間の頃、寳泉寺七代住職悦堂大和尚が遠藤東原の湿地帯の原野に人工の排水溝を掘り荒野開拓し遠藤原村を開いた話がある。これはその後も悦堂堀りと呼ばれてきたが、現在は秋葉台中学校の運動場になり、その先も住宅地となって今はみられなくなってしまいました。この地域は引地川支流の小糸川と小出川の二河川の水源池で、池のかしら(現在の秋葉台小学校の運動場)といわれる湿地であったが、悦堂堀の開設の偉業により、このあと三百年にわたって、遠藤地区の穀倉地帯として、住民の生活をうるおして来たのである。しかし大正十二年の関東大震災よりすべての建物は倒壊してしまい当時の面影は見る事は出来ません。
その後、寳泉寺二十八世住職龍紋大和尚が檀信徒の協力を得て昭和元年現在の本堂を向山に創建し現在に至る。今のお寺は間口十間余百十有余坪の大伽藍をはじめ観音堂、金比羅堂,閻魔堂、宝泉大仏、水子地蔵、客殿、庫院から構成されており、現在第三十一世住職によって護持され広く信仰を集めております。
寳泉寺には、寺宝も多く開山二世伝衣の九條衣の袈裟,寛永三年製の雲版,宋心越筆による山号額、尊応筆による無上尊の額、開山伝来の長槍二握、釈迦涅槃図,富岡鐵齋筆の寿老人墨画等の文化財が展示されており見学希望者多くこられております。


寳泉寺の建物について

法堂(本堂)は正面に本尊釈迦如来が鎮座し左右に達磨大師と大権修理菩薩が檀家の皆様をお守りしております。又須弥壇の裏側には開山堂(位牌堂)があり、正面に永平寺開祖道元禅師、総持寺開山榮山禅師左右に寳泉寺歴代住職の位牌が安置されております。法堂は震災により倒壊後大正十三年より立て直しをはじめ昭和元年完成に至り当時では、近隣寺院にはない大きな法堂として完成し現在に至ります。
法堂は百二十坪、屋根の最上からは、相模湾が見る事が出来ます。

客殿(きゃくでん)は葬儀、法事等の控室に使用する建物です。大きさは百三十坪四十畳の部屋が二間十畳の部屋が二間八畳の部屋が一間、洋間、厨房といった形で構成されており平成六年に完成した建物です。

庫院(くいん)は住職と寺族が事務及び日常生活を送る建物です。昭和七年に完成し当時は客殿として使用していたが平成六年に現在の客殿が完成したことにより庫院として使用する様になりました。また庫院には方丈の間という一丈四方の居間が有りその居間に居る人を方丈様といいます禅宗においては特有の呼び方である方丈とは住職を示します。

閻魔堂(えんまどう)は昭和四十七年に完成し堂内には、閻魔王(梵名)耶摩羅者が鎮座されており地獄の主として造悪の不善業を監視し悪の恐るべきことを知らしむ冥王といいます。但し経説に依りては餓鬼道(界)の主又地蔵菩薩の化身なりとも云う正面に閻魔大王その前に赤鬼、青鬼右側に葬頭河婆前に五道冥官がいます。五道冥官は筆と紙を持っております。五道とは、冥界に行く為に通る五つの道で、善悪をただすそれぞれの道の番人です。

金比羅堂(こんぴらどう)は境内にお堂を構えておりましたが雨風など自然のなせる脅威に依り老朽化し当時はその姿を消しておりましたが昭和五十一年に新たに創建いたしました。金比羅大権現は本尊の信仰と共に開祖から当山の鎮守とされており、ご神体は檀信徒の方々の守り本尊としても信仰されております。また、一般では、金比羅大権現は航海を守る神として昔から信仰されておりますが航海のみならず人生の安全を守る神でもあるといわれております。

観音堂(かんのんどう)は寛延二年に旧境内にお堂を構えておりましたが大正十二年の震災に依り倒壊してしまい観音様は近年まで法堂に仮安置されておりましたが平成六年に新たに観音堂が創建されたことに依り七十年ぶりに観音堂へ戻られました。当寺は西国三十三観音を祀っております。昔の人々は、西国の三十三ものお寺を巡り願掛けしておられましたが寳泉寺十九代住職泰山大和尚が願主となりお年寄りの長旅は大変であろうと三十三体の観音様を観音堂へ祀り読経し御霊を入れられました。願主は観音堂へ入堂し一体一体の前で願を掛ける事に依り同じ御利益が受けられる様になりました。そして現在も深く信仰されております。

水子地蔵(みずこじぞう)は正式には,慈母観世音菩薩といい亡くなられた童を救い早く成仏出来るよう見守ってくれる菩薩様です。亡くなった童も母を慕う様に菩薩にすがる姿が水子地蔵にあらわさられております。遠藤村でも大正から昭和初期にかけて疫病がはやり、沢山の童が亡くなられた時代があり、また戦中戦後なかなか童が育たない時代もありました。お寺で供養しておりましたが檀信徒の皆様より水子地蔵があればとの強い希望があり檀信徒の皆様の協力を得て昭和五十九年に創建されました。現在でも理由あってこの世に生を受ける事の出来なかった童の為に毎年十一月二十四日に水子追善供養をおこなっております。

宝泉大仏(ほうせんだいぶつ)は正式には釈迦牟尼大仏つまりお釈迦様のことです。この大仏は青銅製で中国にて造られ船で日本に来られ平成八年に寳泉寺境内に鎮座されました。日本の大仏の作りとは手の向きが違い日本の大仏は右手に梵字の幸福をあらわし左手で人々を救うと云う意味で手の平を上に向けていますが宝泉大仏は右手に梵字の幸福までは同じですが左手は邪悪なものはおさえると云う意味で手の甲を上へ向けております。これは中国と日本の考え方の違いに依るものとおもいます。大仏を正面から見ると顔を少し右に向けており向側墓地の歴代住職墓地及檀信徒墓地を見守って頂いております。


寳泉寺寺宝について

九條衣の袈裟(くじょうえのけさ)は寳泉寺八代住職揚岩大和尚は将軍三代家光の従兄弟に当たる方で母の京極長門守殿常光院様が寳泉寺に金襴袈裟を寄付して頂きました。現在も法堂の西側ガラスケ-スの中に大切に保管展示されております。

雲版(うんぱん)は青銅製で径が62センチであり寛永三年(1626)に造られた鳴物です。禅寺で飯食時を知らせる法器で雲形に鋳出しているところからその名がついた。これを打ち鳴らして衆僧を集合させました。また、雲版は昭和五十三年に藤沢市指定文化財になっております。

涅槃図(ねはんず)は双樹林下で頭北面西に横臥し入涅槃された釈迦の姿でそのまわりを取り囲んだ弟子たちが慟哭するさまを描いた図です。
寳泉寺の涅槃図は横2.5メ-トル縦4メ-トル、近隣の寺院にはない大きな掛け軸となっております。年に一回二月一日より十五日まで法堂に掛けます。

寿老人画(じゅろうじんが)は七福神の一人で長寿を授けるという神です。この墨画は富岡鐵齋の作であり元は第三十二代横綱玉錦三右衛門関旧蔵であったが清光寺所有になり後に相撲の花籠部屋にうつり山梨の美術館で保管されていたが、平成八年に縁有って寳泉寺の所有となり客殿の床の間に展示しております。

寳泉寺歴代住職

寳泉寺初見

天正18(1590)4月の豊臣秀吉禁制写の宛所に「武蔵国遠藤郷法泉寺」とあるのは従来「相模」の誤記と見なされ、これが遠藤郷と寳泉寺の初見とされている(相州文書)。この頃、秀吉の大群が小田原城を取り囲んでいた。この合戦の際に発給された秀吉禁制・掟は大量に一括作成され転戦する武将が宛所を記入し寺社・郷村に与えたものである。郡名は誤記と思われる例があるが国名の誤記された類例はないようである。

もっとも本文書が写本なので誤写の可能性も否定出来ない。ここに「武蔵」と記された事情は不明であるが、翌年11月に徳川家康が「寳泉寺」に対して「相模国東郡遠藤郷乃内」に寺領21石を寄進しているので(相中留恩記略)少なくともこの頃までには遠藤に寳泉寺が存立していたのは間違いないと思われる。

相中留恩記略に記載されている徳川家康寄進状写)

 

藤元寺と古本尊

寛永9年(1632)~延宝5(1677)年の寳泉寺最古の過去帳の末尾に寳泉寺13世住持の津顔が宝永2(1705)年閏4月に古本尊釈迦如来像の台座の下にあった像起立の書を写したものが記されている。

内容は天文3(1534)年11月に「遠藤村藤元寺」の古本尊釈迦如来像が禅聡(47歳、遠江の人)を願主として当所の檀那中の結縁によって建立供養されたとある。この古本尊は鎌倉仏師筑後の作とある。「筑後」を称する鎌倉仏師は天分191550年に東京都府中市普門寺地蔵菩薩像造立の事績が知られる鎌倉市教育委員会1986)。一方、現在の寳泉寺の本尊は令和2年に修復がなされ、天和2(1682)年霜月造立との胎内墨書銘があり、本尊内は胎内仏、巻物、木片等が納入されていた。この胎内仏が古本尊ではと思われる。

なお、納められていた木片からこの仏像は武蔵国三田にある桃源山仙翁寺の本尊であったことがわかっています。
詳細は不明であるが16世紀前半には存在していた藤元寺がのちに寳泉寺と改称されたと考えられる。


江戸時代の寳泉寺と末寺の関係

寳泉寺は900点以上の文書を所蔵しており、大部分は藤沢市文書館に寄託されている。その文書において最も多くの量を占める、末寺との関係文書を分析することで、末寺の住職任免システムが分かる。文書の内容は寺例文書、時代証文(法臘書)、衆寮()証文、隠居願などである。寺例文書は寳泉寺の末寺を任される新住職が、宗派としてのあり方や、その寺院のルールの遵守を誓う証文である。時代証文は新住職の履歴書である。衆寮請証文は新住職の身元引受け証で、新住職にあたる人が属していた関係寺院が提出する。また単に衆寮証文という場合には、末寺の修行僧が寳泉寺に修行先を変える際の身元保証といった意味合いで提出されたようである。隠居願は病気などの理由で住職を満足に務められない場合、隠居する許可を寳泉寺に請う届け出である。

寺院の後任住職になるにあったては、表向き本寺の推薦となっているが、実際は現住職がみずから後任を選定する場合が多い。後任が決まると、まず法類(寳泉寺と同じ系列の属する寺院住職一同)と協議する。ここで異議申し立てが無ければ、今度は近隣寺院、檀家総代を含めて協議する。こうした前段階を踏んだ上で住職の交代願が本寺に提出される。本寺はこれを審査し、問題が無ければ後任候補者を呼び出した上で寺例証文、時代証文を提出させる。この後、提出させた証文と本寺の添書を、録所曹洞宗内の事務的役割を有した寺院に披露する。

 また、住職交代にあたっては、当然ながら住職が亡くなってしまうケースも存在する。僧侶が亡くなる事を遷化というが、住職遷化の場合、後任は遷化した住職の遺書による。遺書を証人、法類、檀家総代、近隣寺院等が遺書を本寺に提出する。そして一同が会する前で遺書を開封し、後任候補の筆頭に名が上がっている人物を審査する。本寺において問題なしと認められれば、日を改めて後任候補者を呼び出し、寺院証文・時代証文を提出させる。あとは、先程と同じ手順である。遺書が無い場合は本寺で選定する。江戸時代は現代と違って住職交代が比較的頻繁にあったため寳泉寺は末寺の任命に諸手続きをかなり忙しく行っていたのでは想像される。


多岐に亘る役割

寺の金融や檀家との諍いの把握、仲裁を行った形跡も多く見られる。

比較的多く見られるのは、経営逼迫により、寺院の修繕に差し支える場合は境内の雑木を売り費用に充てるといった事例では、雑木の伐採・売却の許可も末寺から寳泉寺へ願い出る形を採っていた。祠堂金という金融システムに加担する末寺はこれもまた寳泉寺願い出る必要があった。末寺間の金銭のやり取り、あるいは本寺・末寺間での金銭のやり取り、他の寺院との金銭の貸し借りに於いても寳泉寺への報告は必須だったようである。

また、寺院の火災届なども報告されていた。末寺のあらゆる動向は、報告を通じて丹念に寳泉寺に把握されていたと言えよう。

寳泉寺は本山である總持寺の運営に対し、普蔵院の末寺という形で積極的に貢献していた。一方、他方の本寺格寺院として末寺を支配し、住職交代の手続きを中心に、金銭関係やその他のトラブルなどにも対処していた。さらに、曹洞宗門全体に関わる勧化などの動きに対しても、派下の末寺を取りまとめるなど、多岐に渡る役割を果たしていたことが理解される。

歴史をひもとく藤沢の資料より