双六(すごろく)
私たちが「双六(すごろく)」という言葉を耳にすると、まず思い浮かべるのは、正月や縁日などで家族や友人と賑やかに遊んだ絵双六の光景だと思います。サイコロを振り、コマを進めたり戻したりしながら上がりを目指す、その単純ながらも起伏に富んだゲーム性は、現代においてもボードゲームの源流として親しまれています。
実はこの「双六」という言葉は、もともと仏教の言葉です。仏教の経典や説法の中に、この遊戯がたびたび登場しています。双六は単なる娯楽である以上に、人の生死や煩悩、そして悟りへの道を象徴する喩えとして、古くから用いられてきました。
そもそも双六の原型は、インド発祥の「チャンダル・マンダル」や「チャウパル」といった盤遊戯に遡るとされています。それが中国にわたって双六となり、ヨーロッパにわたってバックギャモンになったと言われています。
これらはサイコロや貝殻を振って駒を動かす形式で、勝敗は偶然に左右されます。しかしインドではこの勝敗を、「因果応報」「業(カルマ)」に関連づけて考えることもあったようです。サイコロの目は、過去の行為によって定められた現在の結果であり、また新たな行為(サイコロを振る)によって未来(次の位置)が決まるというのです。
双六は娯楽でありながら、プレイヤーに「人生は常に上手くいくものではない」という無常観を伝える装置でもありました。上がりに至るには運だけでなく、粘り強さと冷静さが求められます。
どれだけ努力しても思い通りにならない時もあれば、思いがけず幸運に恵まれることもあります。そのような変転を、「双六の盤の上」として表現するのです。
実際、古い仏教文献や説話集の中には、「双六」を比喩として用いた表現が数多く見られます。
『今昔物語集』には、ある僧侶が双六に熱中して堕落する逸話もあり、遊戯への耽溺が修行を妨げるという戒めとして使われることもあります。仏教においては、遊び自体が悪というよりも、執着してしまう心が問題とされます。
江戸時代になると、寺子屋の教材や庶民の娯楽として、さまざまな「教訓絵双六」が作られるようになりました。たとえば「出世双六」や「修行双六」などがあり、これらは単なる遊びではなく、道徳や仏教的価値観を自然と学ばせる教育ツールでもありました。
中には「浄土双六」というものもあり、地獄から極楽を巡るゲームを当時の人は楽しんでいたようです。
「嘘をついたら2マス戻る」「親孝行すれば3マス進む」などのルールは、シンプルながら、善因善果・悪因悪果の仏教的世界観を子どもたちに体験させる仕掛けだったのです。
このようにして、双六は単なる娯楽としてではなく、遊びを通じた人生修行の縮図として、日本文化の中で独自の発展を遂げました。
仏教における「双六」という語は、単なる遊戯を指すのではなく、迷いと悟り、生と死、進歩と後退の間を行き来する私たちの姿を写す鏡であります。サイコロの目に一喜一憂しながらも、最後には「上がり」を目指すという構造の中に、人生そのものが象徴されているようにも思えます。 今、改めてこの古き遊びを眺めるとき、私たちはその盤面の上に、迷いながらも前に進もうとする自分自身の姿を見ることができるのかもしれません。





