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世間(せけん)

画像(聖徳太子絵伝)提供:東京国立博物館

 広辞苑で「世間」という言葉を引くと、「〈1〉有情の生活する境界。衆生世間。」「〈2〉天地の間。あたり一帯」「〈3〉人の世。人生」「〈4〉世の中の人々。同じ社会を形成する人々」とあります。
 最初に出てくる「〈1〉有情の生活する境界。衆生世間」という意味は、ちょっとわかりにくい言葉です。意味内容の言葉自体が、私たちにとって、あまり馴染みがありません。私たちは普通「世間」という言葉を使う時、「世間体が悪い」「世間に顔向けできない」「渡る世間に鬼は無し」などのように、広辞苑の〈3〉や〈4〉の意味合いで使っています。
 仏教語での「世間」は、これとちょっとニュアンスが違います。「有情」という言葉は、仏教では、生きとし生けるもののことを言い、「衆生」という言葉は、私たち人間たちのことを言います。
 そう考えると、〈3〉や〈4〉の意味とあまり変わらないようですが、仏教で「世間」という言葉を使う時、常に、仏さまの世界(出世間)と対比して、我々人間の世界(世間)のことを言うことになります。
 つまり世間は、迷いの世界、仮の世界ということです。
 聖徳太子が残したと言われる「世間虚仮、唯仏是真」(世間は虚仮にして、唯仏のみこれ真なり)という言葉あります。この我々が住む現実世界は仮の世界、虚ろな世界であり、仏の世界だけが真実である、という意味です。
 世間のことがらに気をとられていても、心の平安を得ることはできません。仏さまに帰依して、その真実の世界に触れることで、私たちは安らかな心を得ることができます。
 聖徳太子のこの言葉は、俗世間のいろいろな事柄にとらわれている私たちの心をいさめ、安心への道に導いてくれるのです。
 同時に私たちは、この世間を生きて行かなくてはなりません。
 「渡る世間に鬼は無し」という言葉は、私たちが生きていく上で、本当に悪い人は無く、困った時は誰かが助けてくれるということを示しています。それは同時に、私たち自身が、誰か困っている時には支えとなる存在であるということでもあります。「鬼のいない」世間にしていくのは、私たち個人個人の務めなのです。

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