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知らぬが仏(しらぬがほとけ)

 「知らぬが仏」とは、真実を知ってしまうと心乱されるような事柄も、知らなければ、仏の境地でいられる、といいうことを言い表しています。「知らぬが仏、知るが煩悩」「知らぬが仏、見ぬが極楽」と、重ねて使われることもあります。
 「仏」「極楽」を、心が平静である状態のことを表現しています。もちろん「煩悩」は、心が乱されている状態のことを表現しています。
 誰しも、真実を知りたい、と思う気持ちがあります。それは人として、自然なことですが、同時に、嫌なことは知りたくない、という気持ちもあります。どうしても知る必要のあることでしたら、嫌なことでもしょうがありませんが、物事は知らなくてはならないことばかりではありません。知る必要の無いことを、知らないままでいることも、人生の智慧のひとつであります。
 この「知らぬが仏」、もともとは、どちらかというと「知らない」でいることを肯定的にとらえる言葉でしたが、次第に、本人だけが知らないで呑気でいることを揶揄する使われ方もするようになりました。
 夏目漱石の『我が輩は猫である』には、猫が「二絃琴の御師匠さんの所で聞いた評判を話したら、さぞ怒るだろうが、知らぬが仏とやらで、うんうん云いながら神聖な詩人になりすましている」とつぶやく場面があります。これも、猫が主人のことを馬鹿する使われ方をしているわけです。
 もとは、江戸時代に生まれた「いろはかるた」の「し」の項目が「知らぬが仏」で、そこから広まった言葉だとされています。
 ちなみに「いろはかるた」は、江戸と大阪で内容が異なっており、「知らぬが仏」は、江戸の「いろはかるた」に書かれている言葉です。大阪の「いろはかるた」の「し」は、「尻喰らへ観音」という言葉です。これは、困ったときは観音を念じても、事情がよくなると恩を忘れてしまうことを言います。
 「仏」や「観音」がこうした「かるた」に出てくるのは、江戸時代の人たちにとって仏様や観音様が、近寄りがたい存在ではなく、とても身近な存在だったのだのではないでしょうか。

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