金輪際(こんりんざい)
金輪際という言葉は、ものごとを強く否定する時に、「絶対に」「断じて」という意味で使われます。
「もう金輪際、あなたの顔は見たくない」
「こんな仕事は、もう金輪際ごめんだ」
ちょっと怒っている時に使うことが多いかもしれません。
そもそもこの言葉は、古代インドの世界観がもとになっています。
古代インドでは、この世界の中心には「須弥山(しゅみせん)」という山があると考えられていました。
須弥山の周りには海があり、東西南北に4つの島が浮かんでいます。東には東弗婆提(とうほつばだい)、南には南閻浮提(なんえんぶだい)、西には西瞿陀尼(さいくだに)、北には北欝単越(ほくうつたんおつ)です。ちなみに、南にある南閻浮提が、私たちの住む世界です。
この四つの島がある海の底にあるのが、金輪という場所です。地上の私たちの場所から160万由旬の深さにある場所だそうです。
由旬というのは、約10キロメートルだとか、15キロメートルだとか、いろいろな説がありますが、仮に1由旬10キロメートル説を採用すると、金輪は地上から1600万キロメートルの場所にあることになります。
さらに海底は層をなしていて、金輪の下には水輪という層があります。この金輪と水輪の境目が金輪際なのです。ちなみに金輪の厚さは32万由旬。つまり320万キロメートルです。金輪が1600万キロメートルのところにあり、金輪際はさらに320万キロメートル深いところにあるということです。
ちなみに地球の直径は、約1万2700キロメートルです。そう考えるとインドの世界観のとてつもなく大きなスケールに驚かされます。
金輪際は、我々の住む世界からは、とてつもなく深い場所のことを指します。この世界の際(きわ)という意味から、物事の極限を指すようになり、「絶対に」という意味となりました。
現代では、ものごとを否定する時に使われる言葉ですが、江戸時代くらいまでは、肯定的な使われ方もしていたようです。十返舎一九の『東海道中膝庫裏毛』には、「聞きかけた言葉は、金輪際、聞いてしまはねば、気がすまぬ」という文章があります。これは「絶対に聞かなければ気がすまない」という意味です。
私たちが「金輪際」という言葉を使う時、ほとんどが腹を立てている状況にあります。そんな時、この言葉のもともとの意味を想い出し、壮大なインドの世界観に思いを馳せてみたらいかがでしょうか。自分が腹を立てていることが、とてもちっぽけなものに見え、怒りが収まるかもしれません。