仏の顔も三度まで
「仏の顔も三度まで」という言葉、仏さまのように慈悲深く、穏やかな人でも、無礼なことを繰り返すと、さすがに怒るものだということを意味することわざです。三度までは何とかなっても、四度目にはさすがに怒るということです。
「上方(京都)いろはかるたの中の「ほ」で始まる札に、この言葉が書かれています。上方いろはかるたは、江戸時代に作られたものですが、この言葉の由来はお釈迦さまの時代までさかのぼることができます。
お釈迦さまは、釈迦族の王子として生まれましたが、周囲の反対を押して出家し、悟りを得て、たくさんの信者を導くようになりました。
釈迦族は、コーサラ国の支配下にありましたが、あるときコーサラ国が、釈迦族から妃を迎えたいので、美しく高貴な女性を差し出すようにと言ってきたのです。釈迦族の国は、これをこころよく思わなかったのですが、断るわけにもいかず、身分の低い女性をコーサラ国に嫁がせたのです。
やがてその女性は王子を生みます。王子は成長して少年となりましたが、ある時、母親が身分の低い女性なのを知ることになります。
王子は、それを屈辱と感じます。そして、母をコーサラ国に送った釈迦族に恨みを持つようになります。
やがて王子は王位を継ぎます。そして兵を率いて、釈迦族の国に向かったのです。
お釈迦さまは、既に釈迦族の国を離れ、仏の道を進んでいましたが、コーサラ国が釈迦族に攻め込むという話を聞いて、釈迦族の国に向かう道にある、枯れ木の下に座り、コーサラ国の兵たちを待ちます。
しばらくすると、お釈迦さまが座っている枯れ木に、兵たちが近づいてきます。王様は、お釈迦さまに気づいて近づき、「お釈迦さま、なぜ、そんな枯れ木の下に座っていらっしゃるのでしょうか?」と尋ねます。お釈迦さまは、「これは王様。枯れ木でも、故郷の木陰は涼しいものですよ」と答えます。
これを聞いて王は、釈迦族の国が、お釈迦さまの生まれた国であることを思い出します。そして言い伝えに「戦いに向かう時に僧侶に会ったら兵を撤退させよ」とあることを思い出し撤退することを決意します。
しかし国に戻った王は、やはり釈迦族のことを許せない思いが抑えきれず、再び出兵します。ところがお釈迦さまも、同じ場所で王が率いる軍を待ち、それによって王は兵を撤退させます。
王と釈迦は、さらにもう一度、同じことを繰り返しますが、四度目の時、お釈迦さまは、「もともとの原因は釈迦族がつくったものである。これは因果応報である。変えることはできないのだ」とつぶやき、もうコーサラ国の兵たちを止めることはしませんでした。
そして釈迦族の国は、コーサラ国に滅ぼされます。
コーサラの王は、釈迦族を滅ぼして国に戻りますが、戦いの七日後、嵐に襲われて命を落としてしまうのです。
この物語がもとになって、「仏の顔も三度まで」ということわざが作られたと言われています。物語は、仏さまを怒らせるわけではなく、仏さまが真実を悟り、あきらめるというお話しですが、かるたに取り入れられる時に、意味が変化したと思われます。