1. HOME
  2. 連載記事
  3. 仏教ものしり講座
  4. 縁起(えんぎ)

縁起(えんぎ)

画像(石山寺縁起)提供:東京国立博物館

 「縁起がいい」とか「縁起が悪い」という使い方で知られている言葉ですが、実は仏教の神髄(しんずい)とも言ってもいいほどの大切な考え方なのが「縁起」です。
 「縁起」は、「縁」あるいは「因縁生起(いんねんしょうき)」などとも言われ、この世に存在しているすべての「もの」や「こと」は、お互いが関わり合って存在しているという意味を表しています。
 例えば、目の前の机にお茶があるとします。このお茶には、まず、いれてくれた人がいて、お茶葉があって、お茶葉を加工した人がいて、葉を摘んだ人がいて、お茶の木を育てた人がいて、苗を植えた人がいて、種があって、種を結んだ花があってと、延々とそこにお茶がある原因(因)を遡(さかのぼ)ることができます。つまり、お茶は、湯飲み茶碗の中に、それだけが独立して存在しているのではなく、たくさんのプロセスや原因の中で初めて存在できるということです。

 お釈迦さまは、「苦」の原因を「無明(むみょう/根本的な無智)」と考えましたが、それはやはり「縁起」の法に基づいて悟ったと言われています。
 人間の代表的な「苦」である「老死(ろうし)」の原因は「生(しょう/出生)」にあり、「生」は「有(う/生存)」によって生まれ、「有」は「しゅ/取(執着)」によって生まれ、「取」は「愛(あい/欲望)」によって生まれ、「愛」は「受(じゅ/感受)」によって生まれ、「受」は「触(そく/対象との接触)」によって生まれ、「触」は「六処(ろくしょ/六つの感覚機能)」によって生まれ、「六処」は「名色(みょうしき/名称と形態)」によって生まれ、「名色」は「識(しき/認識)」によって生まれ、「識」は「諸行(しょぎょう/行為・意思)」によって生まれ、「諸行」は「無明」によって生まれるということです。
 「無明」は、迷いのことであり、智慧の光に照らされていない状態のことをいいます。つまり「苦」を無くすためには、まずこの「無明」を無くすことが大切であるということです。仏教ではこれを十二縁起説と呼んでいます。お釈迦さまが得た「悟り」は、縁起の法である、あるいは十二縁起(じゅうにえんぎ)説である、とまで言う仏教学者がいるほどです。

この世の中の「ものごと」は、すべて「縁起」によって生まれており、「ものごと」そのものだけで存在しているわけではありません。だから目の前の「ものごと」に捕らわれ、こだわることは、無意味であるのです。「私」という存在すら、この世の中に網の目のように張り巡らされた「縁起」の中に浮かんでいるに過ぎないのです。
 このことを深く自覚することで、人は苦しみから解放されるとお釈迦さまは考えたのです。

 なお、お寺の歴史・由緒(ゆいしょ)のことも「縁起」と言いますが、お寺がどのような原因によって存在しているのか、というところから使われるようになったようです。
 鎌倉時代は、単なる由緒だけでなく、お寺の歴史の中で起きた霊験譚(れいげんたん/神仏の力による不思議な出来事やご利益のこと)を「縁起」として記すことが流行しました。さらには、有名な「石山寺(いしやまでら)縁起」「北野天神(きたのてんじん)縁起」などのように、絵巻物(えまきもの)として記されるものも生まれてきます。
 つまり「縁起」は、お寺への帰依(きえ)の心を深めていくという大切な役割をも果たすようになっていたのです。単なる歴史ではなく、一種の宗教書でもあるということです。
 お寺のルーツである「縁起」を振り返ることは、なぜそこにお寺があるのかを知ることでもあります。そして、ルーツを通して、信仰を深めることでもあるのです。

関連記事