たくあん
漬け物の「たくあん」。ご飯を食べる時には欠かせないという人も多いと思います。
安土桃山時代から江戸時代かけての時代、人々の尊敬をあつめた沢庵(たくあん)和尚という禅僧がいましたが、実はこの沢庵和尚が、漬け物のたくあんの考案者と言われています。
沢庵和尚は、但馬国出石(今の兵庫県豊岡市)に山名家の家臣の子として生まれましたが、山名家が秀吉に滅ぼされ、父親は浪人となったこともあり、10歳で出家することになります。その後、師匠の薫甫宗忠(とうほそうちゅう)に連れられて京都の大徳寺に移り、29歳の若さで大徳寺の住持(住職のこと)に出世します。
ところが立身出世を好まなかった沢庵は、住持になってたった3日間で大徳寺を出てしまいます。野に下った沢庵は、その後、静かに禅僧として暮らしていました。
沢庵55歳の時、事件が起きます。
それまで大徳寺の住持は、天皇の詔(みことのり)で決められ、その時に紫衣(紫の法衣)を賜っていました。ところが幕府は、天皇の権限を無くしていこうと、今後は朝廷ではなく幕府が許可を与えていくことを決めました。そして後水尾天皇が幕府に許可無く与えた紫衣を取り上げるよう命じたのです。
大徳寺ゆかりの僧たちは、これに反発します。中でも沢庵は先頭にたって反対運動を始めました。
幕府はこれに対して、厳しい処分を下します。特に運動の首謀者であった沢庵は、羽州(山形県)上ノ山に流罪となりました。
この事件は、紫衣事件と言われ、幕府の朝廷に対する優位性を知らしめることになりましたが、同時に、沢庵和尚の権力に屈しない生き方が人々の心をとらえました。
その後、沢庵は許され、三代将軍徳川家光の帰依を受けるようになります。さらに家光は、萬松山東海寺(東京都品川区)を建立し、沢庵を住持として迎えました。沢庵は73歳で亡くなるまで、東海寺で過ごします。
家光が、東海寺を訪れた際、沢庵が大根のたくわえ漬けを供したところ、家光が気に入って「これは、たくわえ漬けにあらず。たくあん漬けなり」と言ったと言われています。たくあん漬けは、この逸話がもとになって命名されたのです。