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文殊の智慧(もんじゅのちえ)

画像(釈迦三尊十羅刹女像)提供:東京国立博物館

 文殊とは、文殊菩薩のことで、智慧をつかさどる菩薩さまです。「三人寄れば文殊の智慧」とは、普通の人間でも三人あつまれば、文殊菩薩のような智慧、よい考えを生むことができるという意味です。
文殊菩薩がつかさどる智慧というものは、知識とは違います。智慧とは、考える力、ものごとのほんとうの姿を知ることのできる力のことを言います。仏教的には、真理を知ることのできる力であり、悟りを導くものでもあります。いくらもの知りであっても、正しく物事を認識できる力を養わなければ、悟りへの道筋は開かれていないと言うことです。
一般的に文殊菩薩は、右手に剣、左手に経典を持ち、獅子に乗っている姿に描かれます。釈迦三尊といって、釈迦牟尼菩薩の左脇に文殊菩薩像、右脇に普賢菩薩像を配置する仏像の形式があります。この時、獅子に乗る文殊に対して、普賢は白像に乗った姿となっています。智慧の文殊菩薩に対して、普賢菩薩は慈悲の菩薩です。
文殊菩薩は、いろいろな経典に登場する菩薩ですが、中でも有名なのが華厳経です。
華厳経には、善財童子が悟りを求めて各地の先達を訪ねまわるという物語が出てきますが、最初に善財童子に教えを説き、この悟りへの旅に導く役割をするのが文殊菩薩です。善財童子は文殊菩薩を訪ね、「私は、自尊心に囚われ、愛欲に苦しみ、憎しみや怒りに身を任せてきました。この迷い多き私に安らぎを与えてください」と言います。それに対して文殊菩薩は、「悟りを得て、安らぎを得るためには、五十三人の善知識(仏教の真理を知り、導いてくれる人)に教えを受け、菩薩となるのです」と説くのです。
善財童子は苦労しながらも五十三人の善知識に会います。実はその五十三人の中には、我々の目から見ても、とても立派とは云えない人たちが含まれています。それは、乱暴な苦行を強いる修行者であったり、残酷な王であったり、遊女であったりします。善財童子は、そうした人が善知識であることを疑うのですが、彼らとのやり取りの中で、ひとつひとつ大切な智慧を付けていきます。こうして五十三人の善知識との出会いが、悟りへの道を広げていくのです。
文殊菩薩が、善財童子を求道の旅に導いたのは、智慧というものが言葉を通して得られるのではなく、経験を通してしか得ることができないからです。知識や情報に囚われがちな現代の我々にこそ、この文殊の智慧が必要なのかも知れません。

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