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行脚(あんぎゃ)

 政治家が不祥事を起こした時など、「選挙区にもどって“おわび行脚”をした」といったニュースが報道されることがあります。この行脚という言葉は、もともと禅のお坊さんが、修行のため、諸国を徒歩で遍歴することを言いました。
 お釈迦さまの時代、お坊さんは、一カ所にとどまることはなく、様々な場所を歩き回って、生活をしていました。特にお釈迦さまと弟子達は、托鉢と布教をしながら、教えを広めながら、行脚して暮らしていたのです。
 また、日本では禅宗の修行僧のことを「雲水」と呼ぶことがありますが、これは、「行雲流水」という言葉の略語です。空を漂う雲のごとく、川を流れる水のごとく、物事にこだわらないで、自然の成り行きに任せて生きていくという意味で、修行僧がいろいろな場所を行脚しながら暮らしていることから、「雲水」と呼ばれるようになったのです。
 江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉は、『奥の細道』で、次のような一文を書いています。
「ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ(今年は元禄二年だとか。このみちのくへの行脚も、ただなんとなく思いついたまでのことだった。が、たとえ旅の苦しみにこの髪が白髪に変じようとも、話に聞くだけで未だこの目で見たことのない土地をぜひ訪ねてみたい)」
 芭蕉は、僧侶の姿をして旅をしていましたが、出家したという記録はありません。ただ、江戸・深川に住んでいる時に、仏頂禅師と親交を持ち、それがきっかけで、禅に親しんでいたとも言われています。芭蕉の中では、どこか、僧への憧れのようなものがあったのかもしれません。
 『奥の細道』での芭蕉の行脚は、約600里(2400キロメートル)だと言われています。これを150日かけて歩くわけですが、芭蕉のこの旅は、空を漂う雲のごとく、川を流れる水のごとく、まさに「行雲流水」の行脚でした。
 旅というものは、それがどんな旅であっても、どこかに「行雲流水」といった一面があります。それは現代の私たちの旅であっても、同様なことが言えます。
 日常から離れ、しばし「こだわり」や「執着」を忘れることができたら、それが私たちの行脚なのだと言えるでしょう。

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